蒼穹のファフナーTHE BEYONDの最終回見てきました。自我と文化の話

2021年11月、始まってまだ間もないタイミングで蒼穹のファフナーTHE BEYOND観てました。
2005年からはじまったファフナーシリーズ17年間の集大成。

僕自身、このアニメ一番好きなアニメにランクインしていて
第三シリーズのEXODUSがリアルタイムで放映されたあたりから、無印を観始めて
ROL、HAEの映画みて、EXODUSの2クール目にリアルタイム追いついてから
ずっとファンやらさせてもらってます。

「あなたはそこにいますか」でお馴染みのシリコン生命体のフェストゥムとロボットで戦うロボットアニメでありながら
蓋をあけてみると

  • 同化をするフェストゥムをメタファーとしてコミュニケーションの在り方を語るアニメ
  • 各一人一人のキャラをしっかり深ぼって成長と交わりを丁寧に描く人間ドラマ
  • 脚本冲方丁さんによる、無慈悲だけど救いのあるストーリー
  • EXODUS時代から気合の入りすぎてる作画
  • angelaさんの気合のはいった作曲

と、ハマる理由をあげはじめたらキリがない
ファフナーシリーズがひとつの終わりを迎えたわけですが

僕個人としては、この2~3年間半年ごとの楽しみだった
蒼穹のファフナー THE BEYONDシリーズが終わってしまったのが

完結をみれた嬉しさと(イベントとかグッズは何も持ってないニワカではありますが)今後ファフナーという看板がついたものが
観れない可能性がある寂しさでなんとも難しい気持ちを迎えております。

ただ、そんな気持ちの中
今回の蒼穹のファフナー THE BEYOND
第10話 「嵐、来たりて」
第11話 「英雄、二人」
最終話 「蒼穹の彼方」

をみて、示唆深すぎて、言語化したいことがめちゃ増えたので
せっかくなので久しぶりにブログ記事を書こうかと思っている次第です

ヨスケ

ネタバレ全開でお送りします

ヨスケ

ファンといいつつ、ファフナー設定深すぎて、自分自身把握しきれてないところあるので、ところどころボロでるかもですが、そこらへんは大目にみてください笑

自我と文化の軸での展開

僕としては、ファフナーはコミュニケーションの在り方を伝えるアニメだと思ってます。
映画パンフレットの言葉を借りれば、コミュニケーションの奥にある自己犠牲と相互理解。

今回のBEYONDもコミュニケーションの在り方を描いていたものの
特にキャラクター自身の自我の形成と”文化”形成が軸にストーリーが進んでいたと思うんですよね。

ヨスケ

一緒に映画みにいった友達とこれについて1時間ぐらい喋ってました笑

自我形成の話

BEYONDでは、いままでのシリーズでフォーカスがあたっていた真壁一騎と皆城総士(初代)が脇役になり
皆城総士(二代目)と日野美羽に主人公が変わっていくのがシリーズとして面白さだと思うのですが

BEYONDを最終回までみて感じたのが
この二人の自我形成が1話目と最終回で全然違うんですよね

皆城総士は、1話目では、偽りの竜宮島でフェストゥムとエスペラントのマリスに

都合の良い環境に育てられ島の外に、興味があるが、そこに対してなんで自分が興味を持っているのかわかってない状況。

日野美羽は、HAEで幼少期から登場しており
幼いながらも、圧倒的なエスペラントとしての能力の高さで物語の主軸に関わってきたものの
幼いがうえに、美羽が意思決定するっていうより、あくまで周りの大人が決める、関わるみたいなイメージで。

物語を進めていくうえでは、本人たちの役割があるから勝手に進んでいくが
一キャラクターで観た時、あくまで子供キャラクターでそこの感情の機微とかはそこまで重要じゃないって感じだったんですが、

このBEYONDシリーズが進んでいくなかで、
総士は真矢をはじめとした竜宮島のファフナーパイロットに反発しつつも交流することで自分の思ってた概念がアップデートされる過程での自我形成。
美羽は、総士というパイロットかつ近い年齢のキャラクターの成長のと対話の過程での自我形成。

上記を通して二人の自我がそれぞれ形成されていくんですよね。

BEYONDの最終回もこの二人が自我形成のプロセスがあったからこそ
納得のできるかたちになったというか。

自我とコミュニケーションの話

で、そもそもこのファフナーっていうアニメは
感情のない(感情を理解できない)同化したがるフェストゥムと
会話をすることでしか意思統一ができない人間を対比で物語を描いていたんですが

このBEYONDという最終シリーズでは今まで感情持ってなかったフェストゥムが
自我と感情を持っちゃったので、さあ大変、どうしましょうみたいな展開なわけだったんですが

今回の美羽や総士の自我形成や
今回、自我を持ったフェストゥム(特にレガートやセレノア)が最終回、
いままで読心術のおかげで会話が要らなかったフェストゥムたちがいちいち会話いるようになってるのみて思ったのが

ヨスケ

自我は他己が存在することを認識して初めて生まれるし、自我があるからこそコミュニケーションは難しくなるけど、自我があるからこそコミュニケーションをしないといけない
ってことなんですよね。

人間、個人により強弱はあれど自我は絶対あると思っていて
自我があるからこそ、自分の想像の相手ではなく、現実の相手とコミュニケーションをとることが
なによりも大切なんだなと。

コミュニケーションは一人ではできないので、少なくとも二人以上で行うのだが
コミュニケーションの登場人物全員”自我”があるから、コミュニケーションは難しいし、人間関係にストレスは生まれるし、
ただ、自我があるからこそコミュニケーションはとらないといけないし

少なくとも僕にとっては、だからコミュニケーションって面白いんだよなと
今回のBEYONDみて再認識できました。

文化形成と役割、世代交代の話

また今回のBEYOND観終わって、エンドロール観終わった時

唐突に思ったのが

ヨスケ

これは文化形成の話だわ。。

なんですよね。何言ってるか意味分かんないですね。

そもそも文化ってなんだよって話なんですが、
wikipedeiaで調べてみると

引用
文化(ぶんか、ラテン語: cultura)にはいくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。
って感じなんですが、

おそらく僕が唐突に思ったのは、
(最近自分自身文化形成にすごい興味あるっていうのも関係あるだろうと思いつつ)
竜宮島に住む人達の文化が

新しい世代の人たちにしっかり引き継がれてるのを感じる。
ってところなんだろうなと。

今回のBEYONDで面白いところが
いままで鬼無双して真壁一樹が最終回付近、まじで空気wになるところがあるんですけど
絶対的な主人公だった真壁一騎がストーリー関与しなくても、話が進むのって

作中では、竜宮島での”文化”が新しいキャラクターに引き継がれているし、

メタ的な話になりますが、視聴者である僕たちと作中のキャラクターたち(もっと言えば、監督、脚本家、声優)の人たちが
「竜宮島の文化ってこういうのだよね」的な目線があってるから

真壁一騎がストーリー関与しなくても成り立つ。

これ観て思ったのが
自分の中で最近文化興味ある、文化興味あるってすごいいってたが
具体、文化って

  • 人間複数人以上生まれた塊には必ず発生する。(時間軸関係ない)
  • 最小単位は二人から、大きくなったらチームもそうだし、国もそうだし
  • 構成要素は、人、かたまり、価値観、判断の基準値(もっとまだあるかも)
  • 文化形成の中にはそれぞれの人に役割がある
  • 積み重ねが文化をつくる
だなと。

ファフナーってシリーズをずっと観てきて
作中の中でも、作中の外でも文化形成されているのを感じていて

それをシリーズの最終回迎えたことにより
唐突に”文化”に対する理解度あがりました。

自我の形成と文化の形成はほこ×たて

逆説的に文化があると、自分の本来思っていたことが実行するの難しくなるとも思ったり。

最終回近くで美羽が自己犠牲で、世界を救おうとして
総士が逆ギレするわけなんですが

これも今まで竜宮島が重ねてきた文化の弊害があって。
美羽ママも、メアリーも織姫も自己犠牲することによって
竜宮島や守りたい人を守ってきた、ある意味宗教的な文化があって

美羽も自分の意思として動いてるけど、傍からみてると文化によって盲目になっちゃってるんですよね。

何が言いたいかというと、
文化形成には、役割が必須だが、
自分が何をやりたいかを考える時に、所属してるコミュニティーや文化に準ずると、やりたいことがブレることが往々にしてあるなと。

これ現実世界でもあるし、だからこそ、
文脈混ぜて考える必要もあるし、文脈をしっかり切り離して考える必要もあるなと。

正しい、正しくないではなく、
そこを整理して自分が思考できているか問題。

ヨスケ

文化形成は面白いけど、文化は二人以上でしか生まれないから、自分個人で考えた時に切り離さなくてもいいし、切り離す必要がある時、切り離して考えれるか文脈

異分子が入ってきたときに、受け入れられる度量がその文化にあるか

文化形成で面白いなと思ったのが

美羽はじめ、竜宮島全員が

”美羽が犠牲にならないと世界が救えない”を盲目的に信じ切っている中

皮肉にもフェストゥムに育てられていて、竜宮島の文化形成に関わってこなかった総士が
逆ギレするわけですよ。

それで、現状の文化では考えられなかった着地で最終回を迎えられるだけど

ココらへんで示唆的だったなと思ったのが
ある意味、異分子だった総士が入ることによって良くも悪くも
文化が変わるんですよね。

ここらへんで思ったのが

  • 文化(組織と言い換えてもOK)は停滞すると、破滅する
  • 文化が変わるのはイレギュラーの存在が入った時
です。

だってやばくないですか?
人が死なないとハッピーエンドがこない選択肢しかないの。(アニメの話とはいえ)

でも、同じ文化だとこういう宗教的な発想になるの現実でも全然あると思うんですよね。
思考が固定化される。

だから、文化(組織)には常に新しい風をいれないといけないし、
文化には、イレギュラーを許容する度量がないといずれ破滅する。

そういう意味では、象徴的だったのが、
総士の最終のやんちゃを、ふみひこではなく近藤剣司が了承するっていうのが
文化の変化、世代交代という意味でもわかりやすかったなーと。

何が言いたいかって言うと、
誰もが文化にふれるし、文化を作る人だと思うんですが、

僕自身は、文化が変化していくのを前向きでいれる人間で常にありたいなと
BEYOND観て思ったのでした。

誰もが盲目になるんですよ絶対。
ただ、そういう事実があることだけを理解しているのと理解してないでは
天と地ほど差があると思いました。

まとめ:シリーズの総精算を感じた

まあそんなかんじで
自我の形成、それに紐づくコミュニケーションの大切さ。
文化形成について、自分自身すごく新しい気付きがあったので

それだけで、この映画観に行ってよかったなって思うのですが

すごい寂しいのが、
シリーズ終わらせいってるのすごい伝わってくるんですよね

「あ〜〜〜〜〜〜〜ボスキャラそういう感じで閉じちゃう?」
「めちゃハッピーエンドやん」
「そのキャラにその救いいれちゃう?」
「”祝福”でそういうぶん殴り方する、、、?」
「え、フェストゥムそういう着地、、?」

みたいな。ストーリーとしては全くケチつけるきないんですけど

ヨスケ

これ次回作作る余地まじでないよね!?!?!?
みたいな。

作中でも真壁一騎が
「すべての力には終わるがくる」って語ってるぐらい

全ての物事において終わりがあるのは当たり前なんですが
こんなきれいに終わらせに来るとさすがにちょっとさみしい。。。

いやほんとに、、、、。
ただ、キャラクター一人一人が成長してて

特に真矢が、このシリーズにおいて
あんな愛くるしい少女キャラだったのに、

冷静な大人女性キャラを作るのですが、
ストーリー上無理してるのすごい伝わってくる演出だったのが

最終回で、素の真矢に戻るんですけど
ある意味真壁一騎に依存していたような節があったのが

一人の人間としてしっかり自立するような終わりになっていて
一人の人間として、真の意味で成長するような着地になっていて

ほんと涙ちょちょぎれるし、
このシリーズ一緒に走り抜けれてよかったなって思うのですが、

ほんとにこのシリーズ終わっちゃうの寂しいなと思う櫻井でした。

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